親の家とはいえ他人の家。
一方的な考え方で片付けると、親子の間にトラブルも起きがちです。
自分の経験も踏まえた上で、親の家を片付けるときのNGワードについて考えてみました。
親の家の片付けは死生観も影響する
親と子は当然のことですが、年代が異なります。
生きてきた時代も違います。
「人間は生まれたその瞬間から死に向かって歩いている」とはいうものの、50代半ばの私とまもなく90歳という父とでは、死への距離感が全く異なっていると思います。
それを顕著に表した父の言葉は
「【もう】って言うのやめてくれ」でした。
認知症対応型グループホームに母が入居した後、実家の片付けを妹としていたときのことです。
「これもういらないよね」
「これもう使わないよね」と言った私たちに対して父から出た言葉でした。
「もう」という言葉は、父にとっては今生きている自分たちを否定するように聞こえたのでしょう。
気持ちを推し量ることはできますが、同じ感情を心から実感するのは父の年代になってからではないかと思います。
親にとっての【いつか】は心の拠り所なのかもしれない
「いつか使うかもしれない」という言葉に、若い世代で片付けや断捨離に励んでいる方なら、
「【いつか】はやって来ない」と思うでしょう。
私も片付けをしているときにはそう考えます。
でも親世代にとっての【いつか】は希望なのだと感じるようになりました。
【いつか】があってほしいという希望。
いつまでも元気で長生きしたいという希望。
そんな希望を抱いている親に
「いつか使うっていつよ?」
「いつか使うって言うものほど使わないでしょ!」
「【いつか】なんてあるわけないじゃない!」と言ってしまうのは、
「もうそう長くは生きられないのだから」と言っているのに等しいもの。
元気で長生きしたい思いを打ち砕くものです。
子ども世代はそんな意味で言っているのではないのですけどね。
親の気持ちを汲んだ片付けを
すっきりと片付いた家で暮らしたら心地よい。
どの世代でもそんな思いはあるでしょう。
50代の私はこれから先の人生、これから先の生活をより良くするために片付けたいと思って行動しています。
快適に暮らしたいけれど片付ける体力も気力もない、というのが親世代でしょう。
子ども世代が片付けてくれるのは嬉しいが、あくまでも親世代の価値観、ペースでやってほしい。
それが本音ではないかと思います。
親子でも他人。
ものに対する思い入れは人によって異なるものです。
ものがない時代を経験しているから、使えるもの(使わないけれど)を処分することに罪悪感がある のでしょう。
「使えるから」は、父と片付けをしていて度々聞かされた言葉です。
ものには人生が詰まっている
親と会話しながら親の家の片付ける。
そんな経験から、【ものにはその人の思いや人生が詰まっている】と感じました。
人の思いや人生を蔑ろにすることはできません。
年老いた親だからこそ、じっくり話を聞きながらの片付けが必要なのだと思います。
そんなひと時に、今まで聞けなかった思い出話が飛び出すかもしれません。
片付けが進まなかったとしても、それはそれで大収穫と言えるでしょうね。
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